大倉精神文化研究所 平井誠二先生インタビュー
港北区・緑区・青葉区・都筑区は “鶴見川流域文化圏”
かつて一つの港北区だった横浜北部4区には、鶴見川流域という共通点もあります。鉄道や道路網が整備される以前、川は人や物、文化を運び広げるメインルートであり、鶴見川流域は共通の文化圏が存在しました。こうしたよこはま縁むすび講中のフィールドである4区の歴史的な“縁”について、郷土史に詳しい大倉精神文化研究所の平井誠二先生に聞きました。(令和4年1月28日 大倉精神文化研究所にて)
取材 松園智美(都筑区)、撮影 北原まどか(青葉区)
4区共通の「土地の記憶」の根っこは鶴見川
港北区、緑区、青葉区、都筑区は「横浜北部4区」「港北4区」などと呼ばれています。
「昭和14年に港北区が生まれたとき、この4区の地域が港北区でした。そして30年経った昭和44年に緑区と港北区に分かれ、平成6年に青葉区と都筑区と緑区と港北区に再編されたという歴史があります」と4区の歴史を今回解説してくれるのは、港北区にある大倉精神文化研究所理事長(兼所長・図書館長)の平井誠二先生です。地域の歴史資料を数多く研究し、港北区では随一とも評される郷土史家である平井先生は、縁むすび講中の会合で「鶴見川流域文化圏」という考え方を私たちに教えてくれました。
鶴見川は恩田川や早渕川といった支流も合流し、町田市の源流から鶴見区の河口に至ります。全長42.5kmにわたる鶴見川の流域は、町田市や川崎市の麻生区などにまで広がっていますが、その流域面積の実に半分をこの4区が占めているのだと言います。
昔、人の日常生活の範囲というのは、川を中心に同じ谷間のエリアで完結して暮らせるようにできていました。魚などの生き物を食物として調達し、飲み水や農業用水も川から得ました。
道路が整備されたのは、江戸時代以降なので、それまでは一番の幹線が川。川は物流の拠点でもあり、大量の荷物は船で運ばれました。流域では同じ川を利用する人が暮らし、交流し、自然に同じような文化を共有するようになります。
平井先生は、「そうした長い年月をかけて形成された地域の文化や生活様式を、人は“土地の記憶”と呼ぶのだと思う」と話します。
縁むすび講中がテーマの一つに掲げる「土地の記憶」とは何なのか、もちろん答えは一つではありませんが、先生のお話を聞くうちに捉え方のヒントが得られそうです。
鶴見川流域の共通項
① 73もの「杉山神社」
「鶴見川独自の何かというのは、そんなにたくさんあるわけではないと私は思っています。市内旭区や川崎市、相模原市だとか、昔の武蔵国の南部というか相模国の境あたりでもどこも似たような文化があるわけですが、そうした広い地域を見渡したときに独自なものとしてあげられるのが『杉山神社』なんです」。
平井先生によると、杉山神社の分布は、帷子(かたびら)川(旭区、保土ケ谷区、西区)の流域にも一部あるものの、それは横浜北部から分かれたもので、ほとんどは鶴見川の流域にしか分布していないとのこと。図には73の杉山神社がマーキングされています。
昔、この地域は、古代から横浜市に編入される昭和14年まで「都筑郡」と呼ばれていました。平安時代、京の都で編纂された「延喜式」には朝廷が祀るべき日本中の神社が三千社近く記されており、その中で武蔵国の都筑郡では唯一、杉山神社の名が記されていたのだとか。周辺の橘樹郡(たちばなぐん)久良岐郡(くらきぐん)には延喜式に記された神社がない中で、杉山神社だけが記されていることから、遠く都にまでその名が伝わるほどの由緒ある、あるいはメジャーな神社であったことがうかがえます。
「最初にできた杉山神社がどこだったかは今ではわからないのですが、枝分かれして増えた範囲が鶴見川の流域にほぼ限定されているのです。別の神社の氏子がいる地域には広がらないので、杉山神社を信仰する同じような文化を持った人たちが鶴見川流域にどんどん入植し、新しい村をつくったり、場合によっては他の村を征服したりしながら杉山神社も増えたとされます。いつの時代にどんな人たちが、どんなことを考えて広げたのかはわからない。わからないから、面白いわけです」と楽しそうに教えてくれる平井先生。身近にこんなにわかりやすい地域の共通項があったとは、驚くばかりでした。
鶴見川流域の共通項
② 戦国時代の城のつながり
次はいよいよ、よこはま縁むすび講中の活動でも注目されてきた「城」についてです。
遡ること戦国時代、小田原北条氏が直接治めた港北区の小机城を中心に、この4区にあたるエリアを含む鶴見川流域沿いには城が数多く構えられていました。小机城の城代・笠原氏は「小机衆」と呼ばれる軍団をつくり、横浜北部から川崎市域に10以上の出城を置き、治めていたのです。
「なぜ小机城を北条氏が拠点にしたのかというと、山の上にある小机の城からは、川向こうの左岸は都筑区東方町方面から新羽町、手前の右岸は大豆戸町や大倉山などまでずっと見渡せるのです。敵の侵入にすぐ気づけるところにお城を築いて見張り、防御していたのですね」と平井先生。
小机衆と呼ばれた家来衆の出城は、青葉区ではこどもの国近くの恩田城、都筑区ではショッピングモールのららぽーと横浜近くに池辺城、緑区の恩田川沿いに久保城(榎下城)、港北区では新横浜エリアに篠原城……など、私たちが暮らす身近な場所にたくさん散らばっていたことがわかります。気づけば、確かにどの城も、川のほど近くの見晴らしのいい場所にあるようです。「この城からは昔どんな風景が見えたのだろう」と、私自身の街を見る目に新しい視点がインストールされるような感覚を覚えました。
鶴見川流域の共通項
③ 街道、そして鉄道が発達し、現代は都心郊外の住宅地に
そして近代に入ると文明や技術が発達し、街道や道路網が整備され、自動車も増えてくると流域とは関係のない生活が広がります。
鉄道や鉄道会社による住宅地開発が進み、現代の横浜北部は「都内に通う層の街」「開発された新しい住宅街」などのイメージが定着しています。
「例えば港北区の場合、区域の東側に住んでいる人は東横線を使って移動し、菊名の図書館に行ったり、大倉山の港北公会堂に行ったりします。だけど、鶴見川の西側の新羽、新吉田、高田の人たちは横浜市営地下鉄を使って移動するわけです。また、郊外型の開発で大きな幹線道路を通し、その通り沿いにショッピングセンターや各種施設ができて、そこへ自動車で行くという文化も形成された。私たちはこういうことをあまり意識せずに、暮らしているんですね」と平井先生。確かに鉄道は各路線によって「テレビドラマによく登場する住宅街」「学生街が多い」などイメージが違っていることは事実です。
さらに情報という面からは「年配の人は市の広報や区役所の文化情報やイベント情報、新聞の横浜版や川崎版といった地域版というように行政区で区切られて発信された情報を受け取ることが多い。“意識としての行動文化圏が行政区によって分かれている”というのが今の状況だろうと思います」。一方、若い人はというと、生活上必要な情報は、新聞やテレビよりインターネットで得ています。「若い人にとっては、地縁というのは全くなくなって、新しい縁というか何か新しいつながりが出来つつある。今はそういう過渡期かなと思います」と捉えます。
「地縁」や「土地の記憶」は、個人の肩書きを問わない有益な交流ツール
「それでも『地縁』というのは、残っていくわけです」と、平井先生が強調します。「親戚がこの流域に多いとか、似たような伝統行事があちこちに残っているとか。人々の意識の上では忘れられてしまうんだけど、実は市民生活の根底には、まだ共通する文化や慣習が残っていたりする。日本人がどんどん均一化して東京と変わらない生活をしつつある中で、その土地にしか残っていないモノやコトがある。それがその土地にしかない『お宝』なわけです」
そしてそれが、私たちの生活をどう豊かにしてくれるのか、縁むすびの活動ではどう生かしたらいいのか、平井先生は続けます。
「地域の人がコミュニティをつくっていくとき、“会社では部長でした”などの肩書きを言うと嫌がられたりしますよね。地域での活動に参加するとき、会社での肩書きは無関係です。誰もが平等に共有できる情報、それがこの土地の記憶なのだと思います。土地の記憶を意識し、話題にしたりすると、集まりやすく溶け込みやすい。そういう有益なツールでもあるのです」
この言葉に、私は思わずハッとしました。私もそうですが、横浜北部含め都心郊外と言われる地域には外部から転入してきた家庭も多いでしょう。引っ越してきたばかりのころは、地域での活動はどことなくアウェイな感覚がありました。だけど、こうして地域に共通の歴史や文化、慣習を知れば「新参者」というような気持ちはなくなり、自分もそのコミュニティの一員だと安心して参加できるような気がします。まさしく「有益なツール」という表現がぴったりです。
災害時こそ、土地の記憶が生きる
「今年は寅年で、この地域でも寅年薬師のご開帳が企画されています。四国巡礼では四国全域を広く巡りますが、こうした子年観音、寅年薬師、酉年地蔵など12年に一度の札所巡りの文化というのは、江戸時代以降増え、近隣のお寺同士のつきあいや連携で形成されるので、限られた地域を巡ることが多く、やはり文化圏で捉えられます」とも平井先生。
飢饉や疫病という大災害の時、人々が神仏にすがらなければ生きていけないようになると、現世利益を求めて札所巡りが形成されることが多かったそうで、港北区では「港北七福神(現在は横浜七福神とばれる)めぐり」が、東京オリンピック後の昭和40年代の不景気の時代に生まれたのだとか。
青葉区から神奈川区までを含む広がりのある旧小机領では、子年にご開帳される観音様を訪ねる「旧小机領三十三所観音霊場」巡りが江戸時代から続いていました(昨年はコロナ禍で期間短縮)。
そしてまた、お囃子や獅子舞など今に残る季節の伝統行事が鶴見川を溯って江戸から伝播したのではないか、逆に鶴見川の上流域から小麦などの食料や木材を仕入れる文化があったのではないかなど、川とのつながりを感じる話題が次から次へと展開されます。つながりがあるとは思っていなかったあの場所とこの場所が、川という視点で見れば関係があったかもしれないと、想像や考察がどんどん広がっていくひと時でした。
「この地域に暮らす多くの人はニュータウンができた後に住み始めたと思いますが、今どうしてこうなっているかという過去がわかれば、将来の推測もできる。地域のつながりを知って体感することは、豊かに生きるためのいい方法だと思うんです」と最後に平井先生は話します。身近な街の歴史を知ることは、暮らしを楽しく彩ることになるのだということを実感したインタビューでした。
information
公益財団法人 大倉精神文化研究所
神奈川県横浜市港北区大倉山2-10-1
大正から昭和を生きた実業家で思想家・教育家の大倉邦彦が設立した団体。港北区の大倉山に精神文化研究所と名付けた場で、心が豊かな人、自分の生き方や果たすべき役割を理解し行動に移せる人を育てようと活動した人で、その方法を研究し実践するために設立された。
同研究所には附属図書館も創立時から併設されており、哲学、宗教、歴史、文学を中心に11万冊もの本を所有しており、ほかの図書館にはないような古文書や資料も所蔵。郷土史の本や資料も多い。
HP内には、平井先生が港北区発行の情報紙に連載執筆した「シリーズ わがまち港北」も転載公開されており、地域の郷土史や文化・伝承についての詳しい紹介記事を読むことができる。
この記事を書いた人
松園智美 森ノオト ライター
編集者。新潟県長岡市出身。港北ニュータウンの団地で3人の子どもを育てている真っ最中。学生時代からまち並みや建築に興味を持つ。