【シリーズ 横浜北部文化考】
かつての庶民のレジャーロード・横浜北部を走る「大山街道」
山岳信仰・修験の地として名高い大山(神奈川県伊勢原市)。江戸時代中期頃から「大山詣り」がブームとなり、年間20万人が参詣したとも言われています。中でも現在の国道246号線のルート沿いを通る「矢倉沢往還」は庶民が盛んに利用した人気の大山街道の一つ。大山に参詣する人々は「大山講」という信仰によるコミュニティを組織して詣でた歴史があり、今でも都筑区、青葉区、緑区の大山街道沿いを歩いてみると街道が文化を運び広げた面影に出会うことができます。(上図:「相模州大住郡雨降大山全圖(3枚組)」歌川国芳作 弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年 神奈川県立図書館デジタルアーカイブより)
取材・撮影 出口ひとみ
1.大山街道まち歩きで、文化の往来にふれる 〜大山街道ツアーを体験〜
2022年10月10日、今にも雨が降り出しそうな湿った曇り空の朝、私は長津田駅から集合場所のみどりアートパークに向かいました。「大山街道旧長津田宿と長津田十景を巡る」まち歩きイベントに参加するためです。主催したのは横浜市緑区民文化センターみどりアートパーク。大山街道における長津田宿の歴史を感じつつ「長津田十景」という地域の名所も巡ることで、地域資源の再発見につなげようという趣旨を事前に聞いていたので、見どころスポットが盛りだくさんの1日になりそう!とワクワクしながら集合場所に到着しました。
同館のロビーに到着すると、ガイドを担当する「NPO法人神奈川区いまむかしガイドの会」の方々が待っていました。参加者が続々と集まり、総勢20名、2班に分かれてまち歩きがスタート。私は高橋さんのグループに入れてもらい、長津田の歴史的・景観的な見どころスポットを巡りました。
この日は、夜道を照らすために大山講中が建てたとされる「常夜燈」や、60日に一度の庚申の日に人々が集まり夜通し眠らず神仏を祀った風習の「庚申塔」、長津田村の初代領主・岡野房恒が開いた古刹やゆかりの神社に加えて、長津田に残る10の歴史的景勝地である長津田十景のうちの6カ所を訪れました。
途中、ガイドの高橋さんが「大山詣り」という古典落語の一節を披露してくれました。それがあまりに名調子で、私たちは一瞬で落語「大山詣り」の世界に引き込まれたのです。
「大山詣り」は、酒ぐせの悪い江戸の町人・熊五郎が大山詣りの帰り道で引き起こす騒動のお話ですが、この落語の中で語られる大山詣りの様子は、私が思い描いていたものより、だいぶ楽しそうな様子です。ここではサゲ(オチのこと)はお預け。ゴールで続きを聞くのを楽しみに歩きました。
落語のネタになるほど誰もが知るブームになったという大山詣り。詣でるための道として、江戸中期から現代までたくさんの人が歩いてきた「大山(街)道」とは、一体どんな道だったのでしょう。
2.霊山信仰のコミュニティ「大山講」
神奈川県伊勢原市にある大山は8世紀頃、山岳信仰・修験の地として開かれました。江戸時代中期からは庶民の信仰と物見遊山(今で言うレジャー的なもの)を兼ねて、年間20万人が大山を訪れたと言われています。その際の山登りは1人では行わず、「講」または「講中(こうじゅう)」と呼ばれるグループで行い、山登りのプロ「先達("せんだつ"または"せんだち")」にガイドをしてもらう場合もあったそうです。
そして各地から大山を目指す道は総称して「大山道(おおやまみち)」と呼ばれ、その中でも赤坂見附・青山を起点とし、現在の国道246号線におよそ相当する「青山通り大山道(矢倉沢往還)」は、江戸の庶民が大山詣りによく利用し、同時に江戸への生活物資を運ぶ重要な道でもありました。長津田宿は、その「青山通り大山道」と東海道神奈川宿、甲州道中八王子宿を結ぶ「神奈川道」が交差する要衝の地でした。公用で旅をする人たちの荷物を運ぶ人と馬を交換して乗り継ぐよう指定された「継立場(つぎたてば)」という役割を持つ宿場だったこともあり、長津田宿は通行も多く、旅籠や飯屋、かご屋などが軒を並べ、大変賑わったようです。この日もかつての街道の面影をあちこちで感じることができました。
実は、2021年に青葉区にある「横浜市民ギャラリーあざみ野」が主催した大山街道ガイドツアーイベントで「荏田宿」も歩きました。荏田と長津田、隣り合う二つの宿場町ですが、どことなく漂う雰囲気が違うと感じます。主要街道の交差スポットがあった長津田宿は、大山詣りが目的ではない人々もたくさん行き交ってきっと活気があったのだろうと想像でき、荏田宿は静かにじっくりと大山詣りの旅の疲れを癒す宿場町だったのかなと思いを巡らせました。
3.街道は、人・もの・文化の伝達ルート!宿場町はそれらが留まる結節点
2022年11月、横浜北部エリアの大山街道や宿場町について調べようと「川崎市大山街道ふるさと館」(川崎市高津区)を訪ねてみました。ちょうど企画展「大山街道と二子・溝口―大山まいり、商い、文化―」が開催されており(2022年12月まで)、溝口宿や二子宿、大山街道(矢倉沢往還)にまつわる貴重な歴史的資料が豊富に展示されていました。館内の資料によれば、なんと現在でも溝口には「大山講」が残っているとか!地域の商店主の方たちなどが組織し、コロナ禍前まではグループで大山詣でを行っていたのだそうです
溝口に残る大山講は明治44年に「小溝太々(だいだい)講」、のちに「大溝太々講」と名称変更し、グループで大山詣りを行っていたのだと展示されています。川崎市市域の講中には、「御神酒講」と呼ばれる講中もあり、大山にお神酒を天秤棒で担いで運んで奉納して持ち帰るというグループもあったそうです。横浜北部にも、きっと同様に地域ごとさまざまな大山講が存在していたのではないでしょうか?
館内の中でも目を引いたのが「納太刀(おさめだち)」でした。間近で見ると、長さ2.7メートル、重さ約20キロもあるという木製の太刀は迫力満点。納太刀とは、願い事が書かれた大太刀を数人で大山まで運び奉納する行事。奉納時には、自身の納めた太刀よりも大きなものを持ち帰ります。
かつては溝口の講でもこの納太刀が行われていて、毎年7月に開催される高津区民祭では揃いの白いはんてん装束を着て巨大な納太刀をかつぐパレードが行われてきたそう(2020年以降はコロナ禍のため実施されず)。地域の人たちが協力して願いを託した太刀を運ぶ。きっと出発の際には地域総出で旅の準備をし、運ぶ仲間の道中の無事を祈ったことでしょう。
電話もSNSも無い時代に、講は人々の思いを心の深い部分で結びつける大切な場だったのだと思います。今は様々な手段ですぐにつながれる時代のはずなのに、いわゆる「ご近所付き合い」だけはどんどん薄れている気がします。いざという時に頼り合えるご近所付き合いはとても大切なもの。講の果たした役割を紐解くことで、そのご縁を結び直すヒントを見つけられるかもしれません。
たくさんの人が往来していた大山街道。街道や宿場町で人々の出会いや、文化の交流などが生まれていたことを想像しながら歩いていると、当時の人たちが私たちのすぐ横を歩いているような気がしてきます。
長津田のまち歩きに親子で参加していた町田市在住の女性に今回の長津田宿のまち歩きの感想を伺うと、「説明を聞きながら歩いているうちに、昔にタイムスリップしたような不思議な感覚になりました。立派なお寺や神社がこんなに多い場所だとは意外でした。有意義な時間でした」と長津田エリアの新たな魅力に気づいたようでした。ゴールでは、高橋さんから楽しみにしていた落語のサゲ(オチのこと)を聞いてみんなで笑い、その日を無事に怪我無く笑顔で締めくくることができました。
皆さんも、ぜひ、かつての賑わいに思いを馳せながら身近にある大山街道を歩いてみてはいかがでしょうか。
当時の人たちの講というコミュニティや、生活の中での楽しみを想像しながら歩くと、昔も今も変わらない人の営みが愛おしく感じられ、いつもの道やまち並みがぐっと魅力的に見えてくると思います。
information
みどりアートパーク主催「大山街道旧長津田宿と長津田十景を巡る」
http://midori-artpark.jp/detals/000535.php
長津田歴史探訪マップ(発行 長津田宿の歴史を活かしたまちづくり研究会、横浜市緑区)
https://www.city.yokohama.lg.jp/midori/shokai/kanko/miru/nagatsuta-history.html
NPO法人 神奈川区いまむかしガイドの会
https://imamukashi.jimdofree.com/
横浜市民ギャラリーあざみ野
川崎市大山街道ふるさと館
この記事を書いた人
出口ひとみ
青葉区で社会教育に5年間携わり「人が生き生きとしている町」は自分たちで作れることを実感。故郷富山と横浜2つの「ジモト」がゆるやかに繋がることが夢。横浜市青葉区在住。一男一女の母。