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2023年3月 公開

【シリーズ 横浜北部文化考】
12年に一度、扉が開く!「子年観音」「寅年薬師」…今に受け継がれる霊場(れいじょう)文化

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横浜北部共通の文化とは何かを深掘りするシリーズ、第一弾は江戸中期から今も受け継がれている「霊場(れいじょう)」へ巡拝する文化です。
2020年は「子年観音」、2022年には「寅年薬師」…。12年に一度、普段は秘仏とされる仏様の厨子の扉が開かれ、その姿を拝もうとたくさんの参拝者が訪れますが、その土台では信仰と地縁による伝統的なコミュニティ「講」が活躍しています。そんな横浜北部の「霊場」を紹介します。(上写真 2022年4月に行われた医王寺薬師堂の寅歳薬師如来の御開帳  提供:横浜市歴史博物館)

取材 小池邦武


1.霊場は身近にある

まず「霊場」と聞くと、その字面から少し怖い印象を抱くかもしれませんね。
普段私たちがお寺を訪れると、本堂でお祀りされている仏像の姿を拝見することができます。しかし中には秘仏として、厨子と呼ばれる木製の箱の中で守られているものもあります。ある特定の日や年にだけ厨子の扉が開けられ、その姿を拝むことができるのです。これを「御開帳(ごかいちょう)」と言いますが、12年に一度だけ巡ってくる干支年に御開帳されるものは、その干支を付して「子年観音」「寅年薬師」などと呼ばれます。

12年に一度だけ見られる貴重なお姿を拝もうと、参拝者が次々に訪れます。2008年の旧小机領三十三所観音霊場 歓成院(港北区/写真提供:大倉精神文化研究所 平井誠二さん 以下特記のない霊場写真の提供元は平井さん)

秘仏の御開帳が行われているお寺のことを「札所」と言い、その札所が集まったものを「霊場」、そこに属する札所を訪ね歩くことを「霊場巡り」や「札所巡り」などと呼びます。
巡礼を始めることを「発願(ほつがん)」、全ての札所を廻り終えたことを「結願(けちがん)」と言います。霊場の各札所には第○○番のように札番が付いていますが、この番号順に巡る必要はありません。
札所巡りと言えば、四国遍路八十八ヶ所、西国三十三所観音巡礼、坂東三十三観音などが有名ですが、実は私たちのすぐ身近でも行われています。
横浜北部エリアでは、子年に実施される「旧小机領三十三所観音霊場」、寅年には「稲毛七薬師霊場」、「武相寅歳薬師如来霊場」などがあります。
札所が集まったものが霊場、どの順番で巡っても大丈夫、とわかれば参加しやすくなるのではないでしょうか。

2.札所巡りに行ってみよう

札所巡りの由来や背景について、この地域の歴史に詳しい公益財団法人 大倉精神文化研究所(港北区)所長の平井誠二さんから詳しいお話を聞いてきました。

かつて中世からの札所巡りでは、巡礼者がそれぞれの札所でお経を読んだり、書き写したお経を納めたりした後、自らの住所や姓名、年月日を記した木札を天井や柱に打ち付ける風習があったと言います。この木札は「納札(おさめふだ)」と呼ばれ、札所という名前のこと由来にもなっています。最近では巡礼者が集印帳を持ち歩き、各寺院で御朱印などを捺してもらうことが多いですが、これはかつての納札が転じたものと言われています。

2022年に御開帳された寅歳薬師霊場はどんな様子だったのか、少し様子を探ってみましょう。
「稲毛七薬師霊場」は、横浜市港北区を主として7か所の札所で成り立っています。「稲毛」とは、札所のある一帯がかつては「武蔵國稲毛荘」と呼ばれていたことに因んでいます。
ちなみに明治時代から始まったこの霊場ですが、名称に「稲毛」が付されるようになったのはここ数十年来のようです。

稲毛七薬師霊場 第1番 塩谷寺(港北区)
稲毛七薬師霊場 第1番 塩谷寺(港北区)
稲毛七薬師霊場 第4番 西光院(港北区)
本堂から外へ延びる紐状のものは「善の綱」や「お手綱」と呼ばれ、薬師如来像の手の指と繋がっています。この綱に触れることにより、お薬師様と参拝者が一体となることで縁を結び、御利益を授かるという意味があります。稲毛七薬師霊場 第4番 西光院(港北区)
稲毛七薬師霊場 第6番 興禅寺
善の綱の形状は、札所によってさまざま。稲毛七薬師霊場 第6番 興禅寺(港北区)

各札所では、住職や檀家、または地域の住民で構成される「講中」と呼ばれる人たちが、巡礼者に対して参拝の証として御朱印を授けたりするほか、お茶やお菓子を無償で振る舞う、「お接待(せったい)」をしています。
現代の札所巡りは便利な交通機関を使って効率的にかつ短期間で行うことができますが、かつては歩きが基本でした。本来札所巡りは過酷な旅、そんな境遇の巡礼者に食べ物などを施し応援する、これが仏教でいう功徳を積むことになります。
お接待の内容は札所によってさまざまです。残念ながらコロナ禍においてはお接待を見合わせたり、簡略化したところもありましたが、それでも自由に取ることができる飴などのお菓子が置いてあったり、さらに本格的になるとお茶とお饅頭で歓待してくれるところもあります。檀家でもないしお金も払っていないのに恐れ多い、なんて遠慮してしまいがちですが、感謝の気持ちをもって喜んで受けましょう。

子年観音や寅年薬師が次に御開帳されるのは10年以上後ですが、卯年の2023年に御開帳される霊場ももちろんあります。例年4月から5月に行われる霊場が多いようです。御開帳に近い時期になると霊場の公式サイトが設けられるなど、インターネットで情報を集めることができます。気になる霊場を検索して、札所巡りに参加してみてはいかがでしょうか。

3.横浜北部に根付いた札所巡り

引き続き平井先生のお話を伺います。
港北区には少なくとも18の霊場があり、その数は他の地域と比べても多いと思われるそうです。その理由について考えてみます。

(1)江戸から伝播した遊興文化としての可能性

札所巡りは、本来、仏道を究めんとする者が悟りを開くための厳しい修行でしたが、1700年代の江戸中期頃から、一般庶民も参加するようになったと言われます。戦乱の時代から江戸幕府が統治する平穏な時代へと移り変わり、やがて絵画や芸能などの華やかな江戸文化が発展するなど、一般庶民の生活にも余裕が出てきた時期と重なります。

「稲毛七薬師霊場」の札所は川崎市、つまり東京と神奈川の間を流れる多摩川の流域にも点在しています。これはもともと江戸で親しまれていた札所巡りという文化が、水害や改修工事などによって多摩川の流路が変わったことで現在の川崎市側に伝わって来たと考えられるのではないかという話が取材時の話題に上りました。 お囃子(はやし)や獅子舞なども街道や河川沿いに江戸から伝播してきたもの、また江戸での御開帳は寺社奉行の許可が必要であったことから許可の要らない郊外に広がった可能性もあり得そうです。

(2)かつては「暴れ川」だった鶴見川の存在

横浜北部には鶴見川とその支流が多く流れています。今でこそ都市開発が進んで流域には住宅や商業施設などが立ち並んでいますが、かつては水田の広がる長閑な光景が広がっていました。さらに古く鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、現在の港北区小机町辺りのことについて、「武蔵國小机郷鳥山等の荒野に水田を開発すべきの由」などという記述もあります。
かつての鶴見川は頻繁に氾濫を起こす暴れ川で、治水工事などによって比較的穏やかな川になったのは1980年代と、つい最近のことです。それよりも800年近く前、荒野を水田へと開拓した労力もさることながら、発展途上だった治水技術をもってしての水田の維持運営には、流域に暮らす人々の大変な苦労があったであろうことは容易に想像できます。

「たびたび氾濫する鶴見川とその支流河川、富士山の火山灰降積(1707年の宝永大噴火)による農作物の大凶作。これらの生活苦から逃れるため、現世利益を求めた流域の住民が多くいたのではないでしょうか」と平井先生は考察しています。
つまり、住民から見れば、神仏に対する敬いや畏れを以てして苦難を乗り越えようとして、また現在のように娯楽手段が豊富でなかった時代において物見遊山や観光の一種としての目的がある。一方、お寺から見れば仏教思想を普及させることができ、同時にお賽銭などで経済的効果が得られる。このように住民とお寺、お互いの目的が相乗して広まっていったのではないか、ということです。

(3)西日本の言葉?

さらに興味深い情報が。
「御開帳は『ごかいちょう』と読まれることが多いと思いますが、港北区辺りでは『おかいちょう』と濁らないのです」と平井先生。霊場の役員さんや住職さんとお話することがあって、やはり「おかいちょう」と言われることが多いそうです。濁らないのは西日本の言葉に多くみられる特徴で、よこはま縁むすび講中も「こうじゅう」ではなく「こうちゅう」と読むのだとか。西日本ご出身の平井先生としては、かなり気になる点だそうです。

3.札所を支える講や檀家

札所で御朱印を捺したりお接待をしたりするのは、住職や檀家が行うことが多いですが、その中には「講」または「講中」と呼ばれる人たちが活躍しているところが存在します。
講中または講とは、特定のお寺や神社に参拝したり行事に参加したりする目的を持った人の集団のことで、よく知られているのは大山や富士山を登拝する「大山講」や「富士講」です。特定のお寺に所属し一切の仏事を受ける「檀家」と同じかと思うかもしれませんが、それとは別のようです。
そもそもの檀家制度は江戸時代に始まり、キリスト教を禁じた江戸幕府が全ての国民に対し寺院の檀家になることを義務付けた寺請制度がその由来です。幕府の制度として受動的に発生した歴史を有する檀家に対して、講は何かの目的を持った人たちによって能動的に発生した集団という違いがあります。
講は御開帳の時期だけでなく、札所の清掃や簡単な修繕管理など普段から活動しています。実際にはどのような様子なのか、次に「武相寅歳薬師如来霊場」を訪ねてみました。

御朱印を捺す係を務める講の方たち。2008年の旧小机領三十三所観音 歓成院(港北区)
御朱印を捺す係を務める講の方たち。2008年の旧小机領三十三所観音 歓成院(港北区)

(1)霊場の事務局も務める1番札所 舊城(きゅうじょう)寺 住職に聞く 

武相寅歳薬師如来霊場は、かつての武蔵国と相模国の地域にあることから「武相」が付されていますが、横浜市北部の区を中心に、町田市や大和市にある25か所の札所から成り立っています。
札番の第1番になっている緑区三保町にある舊城寺の住職・野村英弘さんにお話を伺いました。

「“無眼(むげん)薬師”という目のない仏様で、目病治癒のご利益があると言われています。当院の無眼薬師如来像は、室町時代末期には三保町にあって地元の名主さんによってお祀りされていたのではないかと言われています」と野村住職。近くにある「薬師谷戸」という名前のバス停からも、当時の面影が感じられます。舊城寺は江戸時代初期の慶長年間から続くお寺ですが、薬師如来像を境内にお迎えしたのは正確な年代は不明ながらも江戸時代中期の享保年間と言われています。その年が寅年だったので、以降は寅年毎に御開帳するようになったのではないかと考えられています。

講や檀家による「武相寅歳薬師霊場会」での事前準備は、御開帳の3年前から始まります。パンフレット制作、広報業務、予算管理など、業務内容ごとの部会に分かれ準備を進め、若い人にも喜ばれるよう、缶バッチやピンズなどのアクセサリーも用意したそうです。
特に2022年の御開帳では、若い人の力を借りてインターネットを初めて活用し、公式ホームページを立ち上げました。アクションカメラを装着した人が自転車ですべての札所を巡った動画をインターネット上で公開したところ、札所巡りに初めて参加する人や、周辺の地理に不安な人に好評だったそうです。
「札所の住職も若い世代が増えてきました。やはり若い人の力はすごいですね。若い人からお年寄りまで、札所巡りに来ていただきたいです」と、野村住職は未来の札所巡りにも期待を寄せていました。

第13番 萬福寺(青葉区)のお接待で頒布されたグッズ。マスクというのも世相柄でしょうか。(写真提供:横浜市歴史博物館)
第13番 萬福寺(青葉区)のお接待で頒布されたグッズ。マスクというのも世相柄でしょうか。(写真提供:横浜市歴史博物館)

当初、武相寅歳薬師如来霊場は現在のように25か所ではなく12か所だったようで、第25番の寳帒寺(ほうたいじ、緑区)には「十二番」と書かれた札が見つかったとか。いつから、どういう理由で札所が増えていったのか野村住職も詳しくは分からないそうです。
情報網が現在のように十分発達していなかった時代、どこにどういう仏様が祀られているか知る由もありませんでした。そこで住民の間で「○○にお薬師様がいるよ」とか「△△のお寺もいるよ」などと口コミで広がり、現在のような霊場の数に増えていったのではないかとも考えられます。
薬師如来は病気治癒の仏様で、今でも松葉杖を突きながら巡礼に訪れる人もいるとのことです。医療体制が整っていなかった時代には、病気治癒のご利益を求めた多くの人たちが、各地にお祀りされているお薬師様のもとへ集まっていたことが想像できます。

無眼薬師如来像が納められている厨子とともに野村住職。巡礼の際には、舊城寺ご本尊の大日如来坐像にも忘れずにお参りしましょう。
無眼薬師如来像が納められている厨子とともに野村住職。巡礼の際には、舊城寺ご本尊の大日如来坐像にも忘れずにお参りしましょう。

(2)現在も「講中」が御開帳と管理を担う 医王寺薬師堂

青葉区のこどもの国線恩田駅の線路向かいにあり、ホームからも眺めることができます。同駅の近くにある徳恩寺が飛び地仏堂として、薬師堂の管理をしています。徳恩寺住職の鹿野融完さんにお話を伺いました。
医王寺薬師堂の日常の清掃やお手入れをしているのは、地域の住民約50軒で構成される「奉賛会」です。武相寅歳薬師如来霊場15番札所となった御開帳の際も、講である奉賛会の方が活躍しました。
「境内では、お薬師様とともに『おてんのうさん』と伝わる神様も、奉賛会の方が祀っています。講が仏様と神様の両方を護っているのです」と鹿野住職。
取材では、昭和10(1935)年に当時の徳恩寺住職と地域の代表者数名と取り交わした文書を拝見することができました。そこには、徳恩寺が薬師堂の管理を行うこと、それに関わる費用や資材を地域の住民たちが出し合うことが記されていました。

徳恩寺の中に展示されている昭和44(1969)年当時の空撮写真
徳恩寺の中に展示されている昭和44(1969)年当時の空撮写真。現在の恩田駅周辺は造成された新しい住宅街が広がっていますが、当時はたくさんの田畑が広がっており、住民には屋号が付されていることが分かります。(撮影:筆者)

「精神的なつながりが講の基本です」と鹿野住職は言います。
「血のつながりの親類もありますが、地面でつながっている『地親類(じしんるい)』という言葉があります。この辺りで農業が盛んだったころは、自分のことだけでなく、周辺の家や田畑にも気を配る必要があります。向こう三軒両隣、病気やケガがなく、健康であること。そうしてつながりを濃くしていかないと、畑や田んぼの仕事も成り立たないのです」と鹿野住職は教えてくれました。
講の目的が実生活に伴うもの、自分自身が講の主人公となりえるもの、何百年も続く講にはそれが根本にあるのだと思います。

4.霊場、札所、講の存在を改めて考えよう

新型コロナウイルスが猛威を振るった2020年は子年。感染対策をしっかり施して御開帳がおこなわれたものの、実施期間の短縮や拝観中止になった事例がありました。2022年の寅年はコロナ禍の鎮静化も見えてきましたが、やはり例年よりも規模を縮小して御開帳した札所が多かったようです。

大倉精神文化研究所の平井先生は、「医学的見地から規模縮小などの制限をすることは仕方ありません。でも、そもそも御開帳をなぜするのかということを考えてみた時、このような疫病蔓延の際に、人々が心の平安を求めて巡礼したのが札所巡りです。それなのに、完全に中止してしまうのはどうでしょうか。札所巡り本来の意味が忘れ去られ、単なるイベントとして形骸化していることを表しているのではないかと思います」と言います。

また舊城寺の野村住職は、「コロナ禍で閉めてしまった霊場があると聞きますが、今考えればもったいないことをしたと思います。戦時中でも御開帳していたそうですから、前代未聞のことでしょうね。私たちは病気治癒のお薬師様をお祀りしているのですから、何としてでも開けようと思いました」と言います。本来ならお堂の中に入って参拝していただきたいところだが今回は善の綱に触れるだけ、触れる際にはアルコール消毒を徹底、お接待は例年なら檀家さんが順番に対応していたところを住職自らが毎日対応するなど、臨時的体制で御開帳を行ったそうです。

旧小机領三十三所観音の泉谷寺を訪れる白装束姿の巡礼者
2008年、旧小机領三十三所観音の泉谷寺を訪れる白装束姿の巡礼者。平井先生が早朝に偶然出会った風景。

お正月になると行われる七福神巡り、これも札所巡りの一種です。干支には関係なく、ほぼ毎年行われていることが多いですが、私は藤沢市の七福神巡りに必ず参加しています。
七福神にはそれぞれ謂れがあることはよく知られており、一つひとつをお参りすることによりご利益にあやかるという目的があります。その七福神巡りでは、すべてを巡り終えると毎年デザインが変わる“開運干支暦手拭”がもらえるのです。私の場合、この手拭をもらうために巡り歩いているのかもしれません。「精神的つながりは」と徳恩寺の鹿野住職から一喝されそうです。

これからどこかで行われる卯年の御開帳、もし参加するのなら、今自分が巡っている霊場がその地域に根付いた由縁、札所でお祀りされている仏像の意味、札所を支える講中の存在、お接待の意義、心の片隅で少しだけ意識しながら、結願を目指して巡り歩いてみましょうか。

information

公益財団法人 大倉精神文化研究所

https://www.okuraken.or.jp/access/

高野山真言宗 舊城寺

https://kyujoji.wixsite.com/website

高野山真言宗 摩尼山延壽院 徳恩寺

https://www.tokuonji.jp/

この記事を書いた人

小池邦武

森ノオトライター。生まれも育ちも横浜市。修行中の忍術を通じて日本や地域の文化を見つめ直していきたい。

よこはま縁むすび講中

http://yokohama-enmusubi.jp/

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